天国行き

 目の前まで迫った2つの光の正体が、二階建てバスのヘッドライトだと気がついたとき。男はハンドルを握る力を緩めながら、

「しまった」

 と一人呟いた。そして、ぎゅっと目を閉じた。

 ほどなくしてけたたましい衝突音が路面に響き渡り、これまで受けた事のない大きな衝撃に男は身体をゆさぶられた。その衝撃はしばらくの間続いた。

 やがて、音はシンと止み、先ほどまでの蒸し暑かった車内から打って変わってひんやりとした空気が肌を撫ぜた。

 再びまぶたを上げると目の前に、なんだか気難しいそうな、それでいてにこやかな、なんとも言えない表情をした老人が杖を片手に立っていた。衣服は肩の部分で硬く結ばれた布を斜めにかけているのみで、手に持っている杖も、登山者や足腰の弱った老人がよく手にしているステッキ状のものではなく、どちらかと言えばモーゼや絵本の魔女なんかがもっているようなしっかりとした大きな杖だった。

「たいへんな目に遭いましたね」

 そういって老人が目を向けた方を振り返ると、自慢のマイカーはペシャンコに潰れ、そこから5メートルほど先に自分が倒れているのが見えた。周りには血の池が出来ていた。

「しかし安心してください。経歴を確認させて頂いたところ、あなたは天国行きということで議決いたしました」

 長く真っ白なヒゲを触りながら老人は穏やかな声色でそう言った。訊くまでもなかった。おそらくこれが話に聞く神様というやつだろう。そうに違いない。その風貌にはえも言われぬ説得力があった。

「たしか、不幸にも先立たれた友人の方もいらっしゃいましたよね。向こうで再会できるよう、こちらでしっかり手配させていただきました。あなたの今までの勤勉で思いやりある生活態度にふさわしい楽園生活をご用意させていただいております。では、こちらの方からお進みください。」

 そう言うと神様は今度は逆側に目配せをした。わざとらしいくらいに、それらしい天国への扉がそこにはあった。

「あ、ありがとうございます」

 突然の事で気の利いた返事はできなかった。とにかく、残された両親のことや友人の事が気になった。が、それよりも自分だ。そうか、俺は死んでしまったのか。

 思えば、苦楽で言えば前者ばかりが多かった人生だった。

 無口で出来の悪かった俺は、学生時代他の生徒と馴染めず一人で過ごす事が多かった。そして、高校を出て早々に嫁いだ姉の分まで人一倍勉学に励み、地域の工業大学に進学した。自分なりには出来る限り真面目に人生に取り組んできたつもりではあったが、両親、特に母は色恋沙汰に縁がない自分を心配してか、老後を心配してか、嫁や孫を俺に切望した。

 同期に誘われ合コンなんかにも顔を出してみるが、同い年か、自分よりいくつか年上の女性の飲食費を肩代わりするばかりで恋愛関係に発展することは一度もなかった。同僚には

「話題なんてのは男から提供して、女の子を楽しませてあげなきゃ」

 なんて冗談めかして言われたが、自分にはどうにも「仕事でもないのにそれは大変だなあ」と思ってしまうばかりで、上手くはやれなかった。

 自分よりも、女性が好きな男連中はいくらでもいて、そんな彼らが女性たちを蝶よ花よともてはやすせいで、彼女たちは不機嫌になったり喜んだり怒ったり、わがままに慣れている風にさえ見えた。まるで、かぐや姫のようだとも思った。

 やっと、仕事先で出会った女性に「この人なら」と期待を寄せることもあったが、何度かデートを重ねたところで

「実は私、彼氏がいるの」

 なんていうことを言われ、自暴自棄、女性不信になっていた矢先、いま天国への扉へ手をかけている。

「天国か」

 ドアノブを握りながら、いままでの人生が少しだけ肯定された気がした。少しだけ、報われた気がした。

 ああ、そうだ。大学の時先に逝ってしまったあいつもこの先に待っているんだ。きっと向こうに行ったらきっと気の合う女性だっているだろう。いつまで続くかわからないが、少しばかり今までの人生を取り戻せたらいいな。そう心の中で唱えながら手にかけたドアを引いた。

 とても清々しい場所だった。牧歌的で、涼しく、小さな家や、ささやかな庭。そこにはテーブルがいくつか並べられ、おいしそうな果物や、切りかけのベーコンなどが並べられている。娯楽の類もいくつか見受けられた。退屈もなさそうだ。

 あたりを見回すと、見覚えのある顔が目に留まった。さきほど老人が言っていた、数年前に死別した友人だ。しかし、どうも様子がおかしい。肩を落とし、木陰で覇気なく俯いている。

「おい、俺だよ俺。どうしたんだよ。そんなにうなだれて。こんないいところ、不満なんかないだろう」

「ああ、お前か。久しぶりだな。あえて嬉しいよ。いや、嬉しいなんて言うのは、不謹慎か」

 そう言って友人は懐かしい笑顔を見せた。

「いやな、不満なんかないさ。欲しいものはなんだってある。みんな気のいい奴らばっかりさ。不健康とも無縁だしね」

「じゃあ、なおさら何でそんな、がっくりして」

「ここは天国だからさ、いないんだよ」

「いない?なにがだ」

「女が一人も、いないんだ」

-雑記

1991年8月4日生まれ。獅子座のO型。